トン先生のコラム 徒然その2

感謝 今僕があるのはみんな皆さんのお陰です。有難う。

 今年の4月11日に僕の恩師がお亡くなりになりました。残念でなりません。
医師として尊敬に値する先生であると同時に、人格者という意味でも素晴らしく、スタッフの皆様方の人望も厚い先生でした。冒頭の言葉は、お亡くなりになる1週間前に自筆で書いて頂いたものです。自分の命の最後が近づいて来ているのを悟っての最後の言葉として頂きました。目頭が熱くなると同時に、お元気であられた時の先生の姿が目に浮かび、胸の奥底から熱いものがこみ上げて来ました。未だにお亡くなりになったことが残念でなりません。
 院長室の机の前にこの言葉が書かれた紙をおいてあります。いつも見ることが出来るようにしてあります。
 生きていることに感謝。人になにかして頂いたら感謝。いつも有難うおかげさまという気持ちを忘れずに生きていけることが本当に大切なことと思っています。僕もそうありたいと思っていますが、未熟ゆえついつい腹を立てたりしてしまって落ち込むことしばしです。

僕は、この言葉を頂いた恩師に出会えたこと、一緒に仕事をさせてもらった事、直接指導を受けたことをとても有難く思っています。そして医師としてだけでなく、人間として心から尊敬しています。この言葉を頂いた先生に感謝!
"先生、本当に有難うございました。"(合掌)(2003,11,11)
B級グルメ?

昔、良く食べたものというものは、どういうわけか時々食べたくなるものです。すごく美味しいというわけではないのですが、たまに食べたくなるのは、やはり、郷愁に近いものなのでしょうか。
* コロッケ茶漬け
これは、いつ頃食べ始めたのか良く覚えていません。もともと僕はウースターソースが好きですから、コロッケにはたっぷりとソースをかける方です。この場合、お茶漬けというよりは、お湯漬けが合うようです。お茶の渋さがソースにはちょっと合わないので、お湯の方が美味しく頂けます、まず、ご飯をよそってアツアツのお湯をかけます。コロッケを4分の1くらいに箸で分けて、お湯漬けの上に乗せ、少しほぐしながら、さらさらと口にかっこみます。なんとも言えなく美味しいのですが、これは僕だけなのでしょうか?

* コロッケ蕎麦
これは、東京に行った時に必ず食べます。立ち食い蕎麦屋のものが最高です。このコロッケは、色の濃い蕎麦の汁に長くつかっていても、すぐにはほぐれないように、硬めに作ってあります。これが時間とともに、出し汁がコロッケに染み渡り、ほぐれて柔らかくなってくる頃が一番の食べ時です。焦って、コロッケだけを解そうとしたり、コロッケだけを、先に食べると美味しさがなくなってしまいます。呑んだ後等が、最高に美味しく感じるのは、やはり酒が回っているからなのでしょうか?

* コロッケ
コロッケ話題にさらに、もう一つ!故郷の肉屋さんが揚げてくれるコロッケがすごくうまかったのです。揚げ立てを新聞紙に包んでくれてそのまま、そこで何もつけず、バクッと食べてしまいます。すっごく美味しかったので、どこか金沢で普通のお肉屋さんで揚げ立てのコロッケを食べさせてくれるところを教えてくれないかな〜〜なんて思っています。

* きつねうどん
きつねうどんのアゲが好きです。刻みアゲではなく四角いのがドンと乗っているきつねうどんが好きです。それも甘く出し汁で煮たおアゲが好きです。うどんの出し汁をすっておアゲが膨らんで来た所を、パクッとほおばって食べて、甘いダシがうどんの汁に溶けこんで出し汁もまた、甘くなります。この出し汁がまた、何とも言えず美味しいんです。甘いおアゲが好きなのは関西の人に多いようですがどうでしょう?

* 牛丼
早い、安い、うまいの牛丼が好きです。吉野家、すき家、松屋などさまざまありますが、たまに無性に食べたくなるのです。これをB級と言っては失礼なのでしょうが、とにかく、僕の好きな食べ物です。紅生姜をごっそりかけて、できればシンプルに卵はかけないでそのまま食べます。むしゃむしゃ食べるところがなんとも美味しく、あ〜〜!うまかった!とよっしゃ〜〜〜!という感じで店を後にします。この感覚もまた良いんですよね。

* 鳥キャベ
シンプルにしてまこと美味しい、これは是非お薦めの逸品です。ホットプレートを使って、バターで鳥とキャベツを炒めながら食べます。若鳥のもも肉あたりで少し薄く切った肉が一番火が通りやすく、美味しいです。キャベツと鶏肉とバターがばっちりの相性で、これを食べる付けタレはウースターソースに洋カラシを溶いたものが最高です。簡単で抜群に美味しいこの料理をもっと広めたいと思うほどです。忙しい主婦の方にもってこいです。(2003.9.16)

*焼きソバ
  これはもう定番のソース焼きソバですが、トッピングとして、乾燥ちりめんじゃこと鰹節をたっぷりかけて食べるとさらに美味しくなります。食感も香ばしく栄養価も高くなります。一度お試し下さい。実は、このちりめんじゃこ鰹節ソース焼きソバは、僕が医学部生の頃、愛媛県松山市にあった"かめ"という食堂で出していたものです。先日、久しぶりに学会で松山に行った時に店に行きましたら、残念!閉店しておりました。誠に残念でした。学生の頃食べたものは、なぜかまた食べたくなるものですね。
"良質のものは、どの世の中でも少ししかない"

 先日、山の上ホテル物語という常盤新平さんが書かれた本の一説です。どの分野のことであれ、良質(本物)のものはほんの少ししかなく、それが古今東西普通のことであると言いきったところが素晴らしいと思います。
 飲食店など、ちょっと評判になり、繁盛してくるとすぐに支店を出したがるのが多く見うけられます。そして、急速に拡大したことがたたって、すぐに味が落ちて、評判が悪くなり、客足が遠くなり本店までもつぶれてしまうこともよくあります。また、ちょっと仕事が順調になると、従業員に仕事を任せ、本職をおろそかにし、趣味に遊びに時間を使い、儲け話にのって大損をし信用を失う。こんなことが世の中には普通なのだと言っているわけです。人間はある部分では欲の塊であるわけですから、欲をコントロールする強い意志が無いと自然とそうなって行くといっている訳です。
 クリニックを開業してから、4年ほど経って、少しずつ患者様も増え、エステ部門をもう少し拡大しようと思ったことがありました。でも、僕はそこで考えたのです。何の為に事業を大きくするのか?事業を大きくすることによって自分は何を求めているのか?お金儲けをしたいのか?おれは一生懸命やっていると他人に評価されたいのか?見栄があるのではないか?そしてさらに、支店を出すことが患者様の満足につながるのだろうか?世の為人の為になることなのであろうか?と自問自答しました。
 そのころ、稲盛和夫さんの本も沢山読み、また、京都、俵屋さんの本も読み、経営、仕事というものはどういうふうにあるべきかを考えてみた所、どうも一流の経営者、会社、旅館は一流と言われる理由が違うところにあるということに気がついて、一旦、事業拡大の考え方を白紙に戻しました。見栄で仕事を大きくしてはいけない、金儲け主義に走ってはいけないと考えたのです。僕は、今でもその判断は間違っていなかったと思っています。
 開業して今年で10年を迎えます。患者様のおかげを頂きまして、当クリニックは数少ない良質の物となるべく、やっと地盤を固めた時期と思われます。今後はさらに患者様本意の良質を求めて、開業当初からの方針"患者様の健康を幸せを願って"良質の治療を行なうべく努力する次第です。(2003.8.1)
"評判が立ち、客が増えて質が落ちるようなところは、実は本物ではないのです"

 この言葉も、山の上ホテル物語にあるものです。僕を含めて人は、ちょっと順調に仕事が行くと有頂天になりがちで、自己コントロールが出来なくて欲に走り、困ったものですね。仏教でも煩悩は否定していませんが、やはり煩悩をコントロールできる意志が常に必要と説いています。難しいことですが、本物を目指すためには精進というところでしょうか。良質を目指して常に地道に行こうと思っています。(2003.8.1)
天然物、養殖物

 食材には天然物を追い求める傾向が強くあります。確かに、鰻、鮎、などではその傾向が強く、鰻に至っては、天然物は、ほとんど市場に出回っていないとも言われています。 
 先日故郷に帰る機会がありましたので、昔からある鰻屋で、蒲焼を食べました。もちろん、小さい頃食べた鰻の味は変わらず、天然物です。紀州備長炭で焼いた鰻は、さらに天然鰻の香ばしさを引き立てます。特に、天然物は皮が香ばしくてうまいんです。身も引き締まって歯ごたえがあり、ブヨブヨの感じがありません。脂も適度でさらっとして口に残りません。特に尻尾の方が美味です。
 以上が、天然鰻の特徴ですが、果たしてこれをうまいと感じるかは、食べている人の感性によるものではないかと思っています。小さい頃から、養殖の鰻しか食べたことの無い人には、天然鰻はふわっとしたふくよかさも無いし、硬いし、ということにもなりかねません。要するに、その人が育った環境、小さい頃食べたものに味覚の好みはずいぶん影響されていると言う事なのです。養殖物でも焼き方、たれの具合によってずいぶん美味しい蒲焼として食べることも出来ます。従って、一概に天然物が美味しいという論理は、全く当てはまらないとも言えるでしょう。しかし、美味しいものを美味しい、天然物を天然物の良さとして判断できる舌はやっぱり優れていると思っています。そして、その感覚が同じ仲間がいたら、もっと食事は楽しくなります。(2003.8.1)

グリーン車

 またまた、和歌山帰省で気がついたことがあります。電車で帰省しました。グリーン車に乗ったのですが、広くて、リクライニングが良くて、ワインを飲みながらウトウト、気持ち良いものです。で、チケットの料金を見ると、なんと特急券が1200円程度、グリーンが4000円となっておりました。グリーンに乗るだけでこんなに高くなっているとはつゆ知らず、ちょっとおとぼけな自分を反省した次第です。この快適さがこの値段であるとはちょっと高すぎるような気がしました。しばし考えていたのですが…。
 良く考えるとグリーン車というのは、
 1、 普段とても忙しくて、移動の際に少しでも快適に、かつ、体の疲れをほぐす必要がある人
 2、 お年の方で、なるべく疲れないようにと思っている人
 3、 体が大きくて普通車ではとても窮屈な人
 4、 身体的、機能的に広い席を必要とする人
 5、 どうしてもグリーン車に乗りたい人

が利用するものであるというところに考えが及びました。
 小さい頃、グリーン車に乗れる方は、とってもリッチな感じがして羨ましかったことを覚えています。でも、本当のところは、見栄などで乗るものではなく、ある程度お金の自由がきくという前提ですが、以上の5パターンに当てはまる人たちが利用するのが本当のところではないかと気がついたのでした。つまり、若くて元気な人は、グリーン車に乗る必要はないと思うのです。(2003.8.1)
佐和子さん御苦労様!

 先日、開業当初から働いてくれたスタッフが退職しました。結婚してからもアルバイトで来てくれていたのですが、出産を控えて退職されました。
 彼女はまじめな性格で、仕事も一生懸命こなしてくれました。一旦仕事を覚えると、ミス無くこなしてくれて心強かったのですが、諸事情が変わり退職の運びになったのです。
 平成15年3月31日をもって退職したのです。
 夕方、仕事も終わって他のスタッフと記念写真をとりました。僕の横に座って、スタッフに送られた花束を胸に抱え、大きなお腹をして写真を撮りました。その写真撮影が終わった後、彼女は、目にいっぱい溜めた涙をこぼしながら、スタッフのみんなに向って、"有難うございました"と、大きなお腹の為に、おじぎもしずらいだろうに、深深と礼をしました。気持ちがすごく良く伝わって、感激してしまうほどのお辞儀でした。気持ちがこもった礼はこれほど美しく綺麗なものであると言うことが実感されて、こちらも目頭が熱くなりました。こんな綺麗なお辞儀ができる人物にに育ってくれたことも僕としても非常に嬉しく思いました。
 ご縁があって長くクリニックに勤めてもらい、また、良縁あって惜しまれながら退職した彼女の運命を決めたのは、彼女自身のまじめさと一生懸命さであると確信しています。
そして、これからもこの御縁は続いて行くのです。
 佐和子さん!長い間御苦労様!(2003.4.7)
河豚の悦楽

 冬になると、いつも鍋が食べたくなります。鍋の暖かさに冷えた体も心も温まり、熱燗などキューと飲むとそこはもう、悦楽の世界です。
 鍋料理の中でも、僕が特に好きなのは河豚鍋です。大阪ではてっちりといいますね。毎冬、何回か河豚を食べるのですが、長年食べていて気づいたことがあります。てっちりはどうしてこんなに人気があるのかと言うことです。
 よく、河豚の身には、あまり味が無いなどと言われ、テッサなどを食べてもポン酢の味しかしないという人もいらっしゃいますが、実は、薄い花のように並べられた刺身状態では分かりにくいのですが、河豚の身にはきちんと淡白な中に甘味が、それも上品な甘味があるのです。それに加えて、歯ごたえのある食感は河豚以外で出せないものなのです。
ぶつ切りの河豚刺しを食べるとこの食感はよく分かります。
 さらに、河豚鍋になるとこれはもう、プリプリの食感と淡白で上品な味を堪能出来ます。鍋に入っている野菜などの味を壊すことなく、アンコウの身ほどブルブルと舌にからみつくわけではなく、鳥鍋の鳥よりははるかに弾力があり、他の食材では出せない河豚独特のプリプリ感です。この醍醐味が河豚鍋の良さだと思っています。
 そして、河豚の唐揚げ!これもたまりません。鳥のからあげ、イカの唐揚げなどには出せない、プリプリ感です。パクッと食べた後のジューシーな味が口に広がり、さらに噛むとその弾力は何物にも変え難い食感です。思わずうまい!と声が出てしまいます。
 白子焼きもいいですね〜〜!良い具合に焦げた表面を箸で破ると、中からはフワフワのおぼろ豆腐のような身が現れ、アツアツの状態で頂くと、舌がやけどせんばかりにハフハフ言ってしまう!たまりませんね。
 ヒレ酒も大好きです。独特の芳ばしさと苦味の中に日本酒の甘味が強調され、一杯、二杯とお代わりしてしまいます。
 とにかく、捨てるところが無い河豚は、他の食材に真似のできない冬の鍋料理の悦楽であるのです。(2003.4.7)
自然美の勝ち

"花の美しさなどない、美しい花があるだけ"と言ったのは、小林秀雄氏と記憶しています。
 最近思うことは、誤解を恐れずに言わして頂ければ、"自然が造る美しさには、人間が創るどんな美術も勝てない"ということです。
 朝焼けの美しさ、澄みきった青空、白い雲、青みがかった深山、静かに流れる川面のきらめき、ふと道端に咲く美しい花、夕日の沈む茜色、海の青さ、白く光る雪山、満天の星の煌き、シンとした月の光、などなど数えあげればきりがありません。そしてそれらは季節ごとにその美しさを変化させます。自然が造る美しさは、一瞬、一瞬こそあれ、本当にかけがえなく美しいものだと思っています。
 人間が造る美はすべて自然を基本としていると思っています。絵画、彫刻しかりです。
風景画、花の絵などを描く美術家は何を表現しようとしているのでしょうか?この美しさを残したい、いつまでも眺めていたいと思うから描くのでしょうか?それともこの美しさを人に伝えたいから描くのでしょうか?自己表現のためなのでしょうか?
 一つ確実に言えることは、どんなに正確に描いても、あるいはその瞬間を写真で表現しても、その一瞬の美しさを残しておくことは不可能だと言うことです。その自然が創り出す瞬間の美しさに勝てはしないのです。逆に言えば、瞬間であるからこそ美しさが極みの頂点にあるとも言えるのですが。
 そして、それは、諸行無常、移り変わるもの、2度と同じ状況ではありえないことでです。こう考えるとその瞬間瞬間の美しさをとても大切にしていたい、食い入るように、貪欲に、美しさを観とどけたいと僕は思っています。(2003.1.17)
四 苦

 この年になると(44歳)お通夜に出ることが多くなります。北陸は浄土真宗のお寺さんが多いようです。お通夜のお経が終わるとお坊さんがお話をして下さいます。大体、よく聞くお話は"人生は苦しいものです。生きていることが大変苦しいもので、少しでも嬉しいことがあったら感謝することです。"と言うお坊さんが多くいらっしゃいます。僕個人としては、"そんなに苦しいことばかりだとなんだかいやだな〜〜"、と漠然と思っていました。さらに、"楽しいこともあったしな〜〜!、これからも楽しいこともあるだろうな〜〜!"などと考えておりました。
 つまり、人生苦しいことばかりという考えに納得出来ていないわけです。お釈迦さんは果たしてそんなことを本当に言ったのだろうか?という疑問です。
 この疑問に答えてくれたのが、五木寛之さんの"運命の足音"でした。
つまり、お釈迦さんは生老病死(四苦)は"人生の苦ではなく、思うにならないこと"と言ったようです。つまり、"生まれて,老いて死ぬこと、また、病は人の思い通りにならないもの"と言っただけで、苦しいこととは言っていないのです。
 中国に仏教が伝わった時に、これを"四苦"と訳したために、日本にもそのまま伝わったのではないかと考えられます。また、さらに、民衆に"生きていることは苦しいことだぞ!"と言うことによる布教のためにも利用されたのではないかとも考えられます。政治との兼ね合いで利用されたこともあったのではないかと推察されます。
 実は、これが僕にとっては"目から鱗"でした。釈迦の説いた仏教の根本を知るようで、"四苦"という本当の意味に納得した次第です。(2002.10.16)
常識人

 "専門バカ"という言葉があります。"医者バカ""芸術家バカ"などで、ある専門の仕事を長くしていると、一般常識などがわからなくなるということです。
 僕は医者ですので医学関係のことを中心にお話すると、基礎研究に携わる方、及び大学病院などの研修医などは、毎日毎日、昼夜を問わず仕事に明け暮れ、大変忙しい状態です。そんな生活を3年も10年も続ければやはり専門バカにならざるを得ないところがあります。また、そこまで仕事に全精力を打ち込めるから、医学の発展に対し有意義な研究成果も得られるのだとは思います。
 しかし、大人である以上、やはり、一般の社会人としての態度、振る舞い、言動など常識といわれるものを身につけていないとだめだと思うのです。根本的なところで、ワガママな子供大人であったり、時間にルーズだったりするのは、やはり人に迷惑をかけることで、自分の行為が相手の方に失礼になることをきっちり自覚し、それを改めていこうと言う気持ちが無いとやはり社会人としては半人前でしょう。さらに、本人が自分は社会人として多少常識が無くてもよいのだと思ってしまうのはもっといけません。
 芸術家、作家でもそうだと思います。超一流といわれる人達は、そうそう出てくるわけではありません。19〜20世紀は、ワガママで、ちょっと変わっていても素晴らしい作品さえできればもてはやされる時代でもあったような気がします。しかし、これからは絶対にそういう時代にはならないと思います。ある程度のきっちりした常識を持った人格者であり、かつ良い作品を作る能力、才能及び、自分の仕事をたゆまなく続ける努力を怠らない人物が脚光を浴びる時代となります。当たり前のことですが、超一流というのは、そういう人物のことで、努力をしない人は超一流にはなれないのです。
 医者しかりです。人間が相手で、人の病気を治療する医療においては、技術的に優れていることも当然として、芸術家、作家以上に常識人であることが必要であると思っています。"医は仁術"ということです。日々研鑚しなくては!と思っています。(2002.8.28)
悟るということ―私見

 禅における悟りをどんなことだと皆様はお考えになっているでしょうか?座禅を組み、瞑想に浸り、ひたすら無我の境地を求めると一般的に解釈されているようなのですが、実はこれは悟りと言うものの一部分であるようです。
 座禅を組んでいたら、観音様が出てきて、こうこうしなさいと啓示を受けたことによって悟ったとか言う人も中にはいるようですが、そんなものは悟りでもなんでもないのです。単なる幻覚に過ぎず、人間は、極限状態に近くなると幻覚などを見るようになっているのです。神のお告げがあったなどと言うのも禅でいう悟りの境地とは全く別のものです。
 では、悟りとは如何なるものでしょうか?
 私の考えでは、"なにごとにも惑わされない心"です。静かで、落ち着いている状態、すべてのものを受け入れて惑わない状態であると確信しています。独り善がり的な頑固と言うのではなく、あるがままの状態を認識できていることだと思っています。また、さらに言及すると、それを心の中心に据えて生きている人を"覚者"というのだと思っています。
 そして、それを悟るということの本質だと考えると、ある一瞬ではありますが、忍土で生活する僕でもそういう惑わされない心を持てるときはあります。そしてまた、すぐに惑わされる境地に陥ってしまうのです。人間は、一旦悟っても、また、悟らない状態に陥り、あ、これではいかんと思い、また、努力して悟るのを繰り返すと思っています。僕みたいな凡人は一生こんなことを繰り返して、日々が終わり、死んで行くのだと思っています。
 ある方から聞いたお話ですが、悟るということは非常に難しく、一旦悟ってもまた、悟っていない状態に戻されてしまうようです。修行は大変で、厳しいのだと思います。禅寺のお坊さん達は本当に大変なのだと思います。俗世間にいる僕なんかには、とても真似の出来ないことです。(2002.8.28)
"月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也"

 松尾芭蕉"奥の細道"の冒頭の言葉です。良い言葉ですね。声に出すともっと良い感じです。良い言葉は発声にして何度も繰り返しいうとその響きがとても良く、ジーンとしてきます。月も日も年も、すべてのものは、生死を行き交う旅人であるという意味ですが、これが日本人独特の世界観であると言えます。方丈記の"行く川の流れは絶えずして、、、"と同じ"無常"感であるといえます。いつも変わらないものなんて無いのですね。(2002.8.19)
きんどん会

 気楽な会があります。もう10年も続いています。僕もある方の紹介で途中から参加させて頂いたのですが、とても楽しい会です。きんどん会と言います。
 始まりは3人の飲み会で、次には知り合いを一人ずつ連れて、6人で行なったそうです。紹介、紹介で会員は膨れ上がり、10年たって約70名の会に成長しました。1ヶ月に一度、金沢は片町のお店で行なっています。夜7時30分より始まり、2次会もあって11時には必ず終わります。職業、年齢に関係なく、目的も全く無い単なる飲み会なのですが、その目的がないというところが会員の皆さんに受けているようで長続きしています。
 異業種交流会も沢山あります。きんどん会の会員の方々は、お忙しい方が多く、仕事上、色々な趣旨の会に出席しているような方が多いので、その中でもなんだか学生時代を彷彿とさせる、ホッとできる飲み会なのではないかと思っています。実際、あまり仕事の話はしません。話題になることはありますが、友達と飲んでいる感覚が強く、はて、ここで思い起こしても、いつもたわいないゴルフ、スキーなど、今度旅行に行くんだ、などと、全くありふれた会話です。アバンティーみたいにカッコ良くありませんが、日常会話という感じです。ただ、僕の場合、そんな話から仲良くなり、プライベートでも良く飲む友達も出来ました。利害関係がないところから始まっているので、気を使うことなく単なる飲み友達で良い感じです。恐らく、これからも続いてゆく会でしょうが、10年後は、どうなることやら?皆さんずいぶん偉くなっているように思われます。
 きんどん会は、仕事でお忙しい時にふっと気が抜ける仲間の会で、目的を持たないめずらしい飲み会です。僕の好きな会です。(2002.8.6)
はただ咲いているのではない。ひたすらに一途に咲いているのです。僕達にはただ咲いているようにしか見えないだけです。

 自然界の動物の生活は、弱肉強食という一定の原理が働いて、バランスをとっています。、その原理は知足という概念を根本にした競争原理です。
 一般的にはさほど言われませんが、植物の世界でも自分の縄張りを広げようと競争が繰り広げられています。山ではブナの木を侵食して竹が勢力を広げています(破竹の勢いとはこの事?)。野ではセイタカアワダチソウは、どんどんススキを侵食します。
 つまり、目立たないのではありますが、日々、子孫を残し、勢力を広げようと戦いが繰り広げられているのです。みんな命あるものは、子孫を残そうとして一生懸命生きているのです。そしてそれは普通、ごく当たり前のことなのです。
 道端の花もひたすらに咲いています。ただ、僕達にはその一途なところが美しい、綺麗だと感じ、ただ咲いているように見えるだけです。千利休は、"花は野にあるように"と言いました。一生懸命、一途の上に成り立った美しさを最も重要視し、"花を活ける""花を生かす"ことを諭したのではなかろうかと思っています。
 人間しかりですね。一生努力!一生懸命というところでしょうか。邪念が多い人間は、ひたむきになったり一途になったりするのは難しいのかもしれません。だからこそ、そういう花の姿が美しく、羨ましく感じられるのだと思います。
それにしても生きるという事はそれ自体大変なことですね。特にひたむきに、一途に生きるという事はとっても大変です。でもまあ、疲れたらちょっと一休みするのでよいのではないでしょうか。そうするとまた元気を取り戻せます。(2002.8.6)
水平ということ

 色々な人との出会いがあります。生活していると色々な人と出会います。
 会合などでお話をしてみてとても素敵な人だなと思うこともありますし、なんでこんなに自慢話ばかりするのかと閉口してしまうこともあります。
 この、人との出会いで僕が一番大切に思っていることがあります。それは"水平に人物を観ることです"。つまり、名詞に刷られている肩書きや何を仕事になさっているかというのも大事ですが、もっと大事なのは、その本人の本質はどうであるか?情熱を持って仕事をしているのか?人としてどんな生き方をしようとしているのかを観ようとすることではないかと思っています。そういう付き合いを僕は"水平に人を観る、水平に人と付き合う"と呼んでいます。
 いままでの付き合いで、"おれは、どこどこの誰かと友達だ!あの人をよく知っている"などと豪語している人は、ほとんど僕の周りからいなくなりました。その時点では"すごいな〜〜!"と感心はしていたのですが、違和感を感じていたことも事実です。そしてそんな人は、気がついてみると、どんどん僕の周りからいなくなってしまったのです。たぶん、付き合い方の違いが原因でそうなったものと思われます。
 人の顔が違うように様々な違う人がいます。千差万別です。
 でも、本当の友達になる始まりは、肩書きが取れたところから始まるのではないでしょうか?見栄もあります。欲もあります。利害関係もあります。でも、本当の友達関係は、そういうものを捨て去ったところに生まれてくると思っています。
 僕は"上下ではなく、人を人間として水平に観て付き合う"ことが肝要で、僕自身はそういう生き方しか出来ないと思っています。そして、こちらが素で人と向かい合わないと相手も本質を見せてくれないのも確かなことです。これからも、このスタイルを崩さず人と付き合っていこうと思っています。(2002.7.31)