トン先生のコラム  徒然その1

お蕎麦

 蕎麦は好きですか? と聞かれて、はーいと答えます。お酒をちょっと飲んだあとにズズズーーと蕎麦のほのかな香りを鼻に感じつつ、ささっと食べます。

 一概に、蕎麦といっても様々です。東京の藪蕎麦、更科蕎麦、砂場の蕎麦からはじまって、長野には戸隠蕎麦、福井には越前蕎麦、、、全国にも数え上げるときりが無いほど蕎麦はあります。そうなりますと、人の顔がそれぞれ違うように、蕎麦の好みも本当に様々です。

 僕個人としては、更科系の細くて上品な蕎麦が好きです。その中でも御前せいろと呼ばれる白い蕎麦が好みです。食べ方は、ざるに盛られた御前蕎麦に山葵とちょっとだけのねぎを乗せて、お箸で少ない目に蕎麦をつまみ、だし汁にをちょっとつけてズズズーーと一気にそそるのが好きです。そうすると山葵の風味と蕎麦の香りが相俟ってなんとも言えなく美味しいのです。まさに、お刺身に山葵をちょっと乗せて醤油をつけて食べるのと同じ要領です。そして、熱燗をちょっと飲みます。これがうまいんですよね〜〜〜。もちろん、前の晩に飲みすぎたときなんかは、汁物が欲しいので、暖かい天ぷらそばなんかも食べます。暖かい蕎麦にしてしまうと、もちろん蕎麦の風味は半減しますが、汁物への誘惑の方が勝ってしまい、ついつい暖かいお蕎麦を注文してしまいます。

 体調によって好みが変わるという、人間臭い煩悩が見え隠れします。まあ、そんなものでしょう。 金沢にも、美味しいお蕎麦を食べさせてくれるお店が沢山あります。蕎麦は好みなので一概にどの店が美味しいと言えないのですが、僕の好みとしては、広小路の蕎麦桐やのかき揚御前せいろが好きです。出し巻きたまごも絶品ですよ。それと、ちょっと耳寄りな情報ですが、黒姫高原に、"ふじおか"という蕎麦屋さんがあります。とっても美味しいですよ。
お鮨

 いや〜鮨はうまいですね。金沢は幸いにして新鮮な海の幸に恵まれていますので美味しい御鮨が食べられます。

 カウンターに座ってさあ、まず何を食べようかな?と考えつつ、口を潤す意味でまず、ビールを一杯。ここから始まります。
 いつもの食べ方は、何かつまみを少なめにちょっとつまみます。つまみを食べつつ今日は何から握ってもらおうかと考えています。つまみはほとんどの場合イカです。僕はイカが好物なのです。特にアカイカが好みです。イカそうめんまではいきませんが、ちょっと細めの切り方が好きです。生姜醤油ではなくて、わさびをちょっとイカの上に乗せて、醤油をちょっとつけて食べます。  僕は、握り好きでつまみは沢山食べようにも割とすぐに鮨を食べたくなります。それから大体始めに食べたいのが、コハダです。もちろん握ってもらいます。季節も関係あるのですが、コハダは酢のしめ方が微妙です。鮨飯の酢とコハダの酢のしめ具合とのバランスが絶妙に僕の好みに合っている場合などは黙って嬉しくなります。
 それから、ほとんどの場合日本酒を飲みながら季節の魚、今日お薦めのを握ってもらいます。お鮨は握ってもらうとすぐに手が出てしまうほうです。ネタも大きすぎず、シャリも多すぎず、パクッと一口で食べられるサイズが好みで、パクッとほうばるとシャリが良い具合に崩れるのが好きです。日本酒は、冷酒でも燗でも好きです。好みのものはお鮨の邪魔をせずに、香りも強くないものが好みです。大吟醸や吟醸はほとんど鮨とはいっしょに飲みません。
 本当のところは、鮨に合う飲みものはお茶だと思っているのですが、お酒も好きなのでついついお酒をたのんでしまいます。ワインも好きのなのですがワインを鮨に合わせようとするとその鮨ごとにワインを変えなくてはならないような気がして日本酒なら割りになんでも合う感じで無難と思っています。

 こうしてコラムの原稿を書いていると鮨が食べたくなりました。今夜はお鮨を食べましょう。
あるがまま
 日本経済は2001年後半にかけて大不況となり、年明け1月になっても今だ、出口の見えないデフレスパイラルにもがいている状態です。いったいいつまでこの状態が続くのでしょうか?不安材料ばかりが気になります。
 こんな時代にあって、昨年より、いかに平常心を保ち仕事を充実させるかを常に考えてきました。そんな中で、昨年末にかけて読みふけっていた境野勝悟さんの書かれた本が、僕の心と行動の指針になり、気持ちの上ではずいぶん助けられましたので御紹介致します。少しでも皆様の役に立てれば嬉しく思います。

 "菜根単に学ぶ人間学""禅に学ぶ人間学""老荘思想に学ぶ人間学"などがその著書です。一貫して彼が説いているのは人間はあるがままにしか生きられないということです。あるがままを受け入れる禅の悟りと同じ気持ちで自己を律し、生きてゆくしかしょうがないのだと説いています。世の中不況であろうが何であろうが、出来ることしかできないのが世の常であり、そういう気持ちを心の奥底にいつも持って生活し、行動することを勧めています。あるがままを受け入れていれば、そのうち良い状況も巡ってくるというものです。これは、蓮如さんの言っている他力の精神にも共通するものと思われます。

 昨年の11月に白洲正子さんの展示会が彼女の実家の武相荘でありましたので、なんとか都合をつけて行って来ました。彼女が言わんしたことが実生活にどう活かされているのか、実際に見たかったのです。実際にそのお道具、風景を見て一番心打たれたのは、石仏、陶器、掛け軸なりが家、竹やぶなどの情景とうまく調和、合致し、全くの自然にそこにある、あるがままにあるという状況でした。極めて自然にそこにある状態が非常に美しく感じ入ったのでした。"形に表れない真実など無いに等しい""花の美しさなど無い、美しい花がそこにある"と言いきった彼女の美を求める立場を実感して帰ってきました。
 また、花人、川瀬敏郎さんの著書を見たり、読んだりしていると、"花を生かす"ということがどんなことであるのかを教えてくれます。千利休が茶花に求めた"花は野にあるように、、"というあるがままを非常に重んじて花を生けているのに感心します。
 さて、今年僕の心の指針は、彼らから学んだこの"あるがまま"を中心に物事を考え、前向きに、地道な努力をしていこうと思っています。仕事でも、プライベートでもあるがままを受け入れてゆっくりじっくり生きて行きたいと思っています。
皆様の今年の抱負は如何なものでしょうか?
継続ということ

 開業してからずっと、ラベンダー(院内新聞)を年間3〜4回ずつ発刊して参りました。平成6年7月開業より、季節ごとのよくある病気の解説とその治療、予防、および最新の治療などを御紹介してきました。平成14年の6月現在でラベンダーは、22巻となり、これからも皆様の生活の中でお役にたてるように発刊を続けて行く予定です。

 さて、開業当初から、"患者様の健康と幸せを願う(利他心)"と言う考えを根本理念とし、その理念から出てくる、"誠実な気持ちで患者様と接すること"、"いつも向上心をもって最新治療を取り入れること""患者様の意見、クレームを聞く素直な心を持ち続けること"、"治療に来ていただいてありがたいという感謝の気持ちを忘れず、謙虚な気持ちで患者様と接すること"を日々心がけ診療を行ない、努力してきました。

 もちろん至らないところもあったこととは思いますが、スタッフともども一丸となって、患者様が満足の行く良い治療、温かみのある接遇を心がけてきました。
 開業9年目なりますと、やはり"慣れ"というものが仕事の上で出て来がちですが、そこは、開業当初から毎朝8時30分のショートミーティングを欠かさず行ない、約3ヶ月毎の仕事が終わってからのミーティングで、その時々の反省をし、どうしたらもっと良い治療が出来るかを検討、議論してきました。もちろん、これからもこれをを続けるつもりでいます。

 つまり、一番大事なのは、"理念の実践を継続して行なうこと"なのです。その努力が時にはしんどいこともありますが、仕事というものは時にはしんどい、辛いこともあるのは当然と割り切って、とにかく一生懸命やりつづけることがもっとも大事なのだと考えています。普通にやっていてはだめなのです。日々努力、研鑚をしているから好循環に物事が回転し、衰退せずにいることができるのです。

 ゲーテは言っています。"天才とは、努力を続ける能力のことである"
"継続は力なり"ということです。今一度、"患者様の健康と幸せを願う"という基本理念を確認し、継続する努力を怠らないことを毎日、毎日ずっとやり続けていこうと思っています。(2002.5.21)
仏教が教えるもの

 お釈迦さんが生まれて仏教が始まった。仏教に関する本を読んでみると、あの世のことを彼は語ってはいません。彼は、世の中に生を受けている人の悩みを解決する方法を説法し、精神面で平等で、豊かになるようにと願い、死んでいったと伝えられています。根本はここなのです。あの世があるとかないとかは彼は一言も言っていないのです。むしろそんな事は知らんと言いきっているのです。
 その後、彼の教えは人、時代に揉まれて、仏教として日本に伝わっています。その中でも浄土教は西方にある極楽浄土を設定しています。禅宗は、悟りをひらくことを目的に修行します。
"はたしてあの世はあるのだろうか?"
 臨死体験をした方は、共通してお花畑をみているようです。これは宗教に関係なく見るようです。臨死体験のない人にとっては、あの世はあるものともないものとも分からず、摩訶不思議な世界といわざるを得ません。科学の発達した現在ですらその解明は出来ていません。でも、それで良いのです。世の中にはいっぱい分からないことがあるのが普通なのです。
 私は、私達が生きるということにおいて、わからないものは分からないで良いのだと考えています。つまり、あの世はあってもなくてもよいのです。そんなことをボーと想像しているより、"今をきっちり精一杯生きる"事のほうが大事だと思っています。
 "人は生まれ必ず死にます"100%分かっている事です。100%という確実なものがとても少ない世の中で唯一、100%のことです。

 時間があっという間に過ぎて行くなあ!と44歳の誕生日を迎えて思いました。残り時間がどんどん少なくなるのです。30歳の頃には全く自覚がなかったことです。大切なのは、分かっていることをしっかり自覚し、それならばこうしようと考えて行動すること、生きることではないかと思っています。それしか出来ないのです。それが現実です。

 人のなせることなどほんのちっぽけなものでしかないのです。それを自覚することです。この自覚があれば、どんなものにでも、どんな人にでも尊敬と感謝の気持ちを持つことが出来る気がしています。

 生きていて、楽しいことも欲しいのです。苦しいことばかりではいやなのです。死んでから楽になるのではなく、生きていても楽しいことがないと人間、辛くなってしまいます。
極楽浄土に行けて楽しくても、現世が苦しいことばかりではいやになってしまいます。死んでから、その業績などが明らかになり、有名になる人がいますが、果たしてその人は生きているときに幸せだったのだろうかと、ついつい思ってしまうことがあります。

 あまり悩まず(悩み過ぎると体に悪い!)、健康で、人に迷惑をかけず、一生懸命まじめに自分の仕事をし、ある程度、世の中の役に立ち、その後に自分が楽しいことができ、それによって人を楽しくさせることができたならそれで十分幸せではないのかなあと思います。
はて?お釈迦さんは何と言われるだろうか?(2002、4、12)
大いなるもの、宇宙の意思(Something Great)

 ビッグバンのあと、宇宙は生まれ、そして変化と呼ぶか進化と呼ぶかは分からないのですが、膨張を続けているのは事実です。果たして、どうしてこういうことが起こるのでしょうか?どうして人間が生まれ、死んで行くのでしょか?この命題に答える事は出来ません。人間の英知を遥かに超えたなにか(Something Great)があるとしか言い様がないのです。それを分からないと認識することが大事であると思います。全部を分かろうなんて人間の傲慢さの最たるものなのですから、、。
 地球上には、様々な宗教(仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教など)や哲学があり、人間が生きる上での心の支え、よりどころとなっています。よりどころとなるがゆえに、不幸にも自然を破壊したり、戦争を起こす原因になっていることも残念なことです。
 地球という惑星に、動物、植物などの生命体が活動を続け、地球自体も命をもつ生命体であると考えると、2000年以降は、大いなるものを認識して、命を大切にするということが必要になってくるでしょう。どんなものかも分からないのだけれど、それを"Something Great"と呼んで、畏敬の念をもって、謙虚に生きてゆくことが必要なのではないかと考えています。

 20世紀は、霊長類の一番トップに立つ生命として人間が、人類の発展という名のもとに、傲慢になって自然を破壊し、動植物を殺し、人間の生活を便利に、豊かにしてきました。それがどうもおかしいということがだんだん分かってきたのです。物質面は豊かになったけれど、多くの人の心は病んでいます。年間自殺者約32000人、児童虐待など特に日本はそんな社会になってしまっています。人間は今、もう一度しっかり考える時期に来ていると思います。すべてのもの対して謙虚さと感謝を持ち、命を大切にする時代がこれからの時代に必要であると考えています。物事はすぐには変わらないのですが、"足るを知る(知足)"というか、もう少し速度を緩めるというか、大いなるものに対して恐れて、尊敬する、感謝する。そう言う事を、実生活の根本に考えて生きてゆくことが必要な時代なのです。

 古来より、日本人は、大きなもの(太陽、巨石、巨木など)からほんの小さなもの(1輪の花など)にまで神が宿ると考え、畏敬の念をもって自然を大切にし、控えめに生きてきた素晴らしい民族です。その素晴らしい日本人の知恵をもう一度取り戻したいものです。

 一生懸命やっても報われないこともあります。良い結果にならないこともあるのです。だからと言って一生懸命を止めてしまったら、その先には、堕落しかないのです。怠けたことをしていては、長い目でみて決して良い結果にはなりません。楽して良い事はないのです。苦しいことばかりするのでは身も心も絶えられません。うまく行かないかもしれないが、人に迷惑をかけず、思いやりをもって一生懸命努力することははやり必要なのです。その上で"天命を待つ"といいましょうか、"運を待つ"としいましょうか。その姿勢が大切なのです。やはり、自分でどうあがいても及ばない、分からない力は人生の上で必ずあり、それが"大いなるもの"の力ではないかと考えています。悪い結果に終わったなら、それを自分以外の何物かのせいにせず、自己反省を十分して、次の機会を待つという忍耐も必要であると思います。この時点で、人間の考えで及びえない、"大いなるもの"の流れを畏敬をもって受け入れる気持ちがあれば、また、頑張れると思っています。(2002.4.10)
温もり

 ホテル、旅館の接遇、接客を考えるとき、一流と言われる所は本当に素晴らしく学ぶべきものが沢山あります。
 私のクリニックの接遇などを考えるとき大いに参考にさせて頂いているのですが、最近ふと疑問に思っていることがありました。つまり、一流のホテル、旅館の接遇のレベルはほとんど差が無いにしても、もし仮に優劣をつけるなら、その差はどこなのだろうか?ということです。

 究極は、お客様の満足を目的とするのですが、お客様の満足度は様々で、お客様が宿泊施設に求めているものも違うものである事は明らかです。つまり、それに対応する側(ホテル、旅館側)はそれぞれそのお客様の何を求めていることを察知して個別に対応することが大切であると言えます。マニュアルを十分理解した上での個別の対応が求められる厳しい環境でもあります。接客する側の言葉使い、ふるまい、ちょっとしたしぐさにもお客様をもてなす気配りが必要でしょう。果たして、その根本をなす、共通のものはなんなのでしょうか?
最近、この根本は、"温もり"ではなかろうかと思い始めるようになりました。

 多くの人が経験したことがあるのではないでしょうか?、小さい頃経験する母親の温もり、父親の厳しさ、家族の団欒、寒い寒いと言いながら入るこたつの暖かさ、公園の日溜でボーとする温かさ、日に干した布団の何とも言えない温かなお日様の香り、水泳をしたあとの何とも言えない疲労感と心地よい眠り、仕事が終わった後の、あ〜!とか、ふ〜!とか言って風呂につかる瞬間の気持ち良さ、朝日の元気そうな陽光、海に沈む夕日の寂光、花が咲くのを心待ちにしているワクワクした気持ち、忙しい仕事が終わったあとの空白の時間の開放感、などなど、考えてみるときりがないようです。そういう事をたくさん経験として持つ人は、逆にその良さ、嬉しさがわかる分だけ人に優しくなり、温もりのある態度で人に接することが出来るのだと思っています。そして、さらに嬉しいことには、この経験は、年をとるにつれて増えてくるものだということです。もちろん、日々求め、精進していての話ですが…。

 お客様、患者様をもてなす接遇の基本は、やはり人柄、人となりで、その人のもつ"心の温もり"であると思っています。(2002,3,15)
仏と命

 "一番大切なものは何ですかね〜?"とあるお坊さんに尋ねたことがあります。彼はこう答えました"命やね。"

 1ヶ月に一度のペースで行なっているワイン会での会話です。もう、3年ほど前のワイン会になりますが、どうした話しの流れか覚えていませんが、"今の時点で大切にしているもの"はなんだろうと言う話になりました。僕は、"感謝"と答えたのを覚えています。クリニックを開業してから、日々、診療にする中で、一番大切だと思っていたものは、"感謝"だったのです。
 彼は、"命"と答えました。その時は、何だか漠然としていて意味が良くわからなかったのを覚えています。お坊さんという職業柄から出た言葉なのでしょうが、妙に、僕の心に残っていて、何を言おうとしていたのだろうか?と時々考えていました。

 医学、経済、骨董、陶器、能、食文化、仏教、禅に関する様々な本を読み、あるいは色々な人とお話しさせて頂いたり、京都のお寺や仏像を観たり、故郷に帰ってみたり、県立美術館に足を運んでキリコ、北斎をみたり、色々な事をしているうちに、だんだん、彼が言った言葉の意味が分かりかけて来たのです。本当に、ごく最近分かりかけて来たのです。
 僕の勝手な解釈かもしれませんが、誠意、感謝、向上心、素直さ、徳、欲、などなど、様々な、生きるに必要な、心のよりどころになる言葉と行動があります。これらすべては、というものから発生するもので、それらをすべて包括するのがであると思い始めています。

 境野勝悟(さかいのかつのり)氏は、"仏は遥か彼方になぞ無い。すべての人の中にある。"と言っています。
 ということは、仏というのは命であると言う事に気づかされたのです。自分の内に存在する自分という者を形成している本性=仏=命であるのです。そしてこの仏は皆様に必ず、平等に存在するものなのです。何だか、嬉しい気がします。大切にしたくも思います。
 2年ほど前、京都で弥勒菩薩の顔を観た時、右から観るとやさしい顔、左から観ると厳しい顔に見えました。仏は、自分の中にあり、仏像に命はありませんが、恐らくその顔の表情は、その時の自分の中にある仏を映し出す鏡としての役割をしてくれていたのではなかろうかと思っています。つまり、そう見えたのは、自分の中の仏の姿だったのです。

 生きていくことは、少しずつ前に進んでいることだと考えています。自分の中の仏を、命を自覚していくためには、やはり努力、自律が必要なようです。
 そして人間のすべての言動は、命を育み、仏を自覚する為にあると言えるのでは無いでしょうか。それはとりもなおさず生きるということかもしれません。皆様は如何お考えでしょうか?(2001.9.5)
郷愁?

 "ふるさとは、遠きにありて想うもの"などといいますが…。
なぜか、今年の春頃から私の生まれ育ったところを懐かしく思うようになり、意を決して1泊旅行をしてきました。どうも、特に、男というものは40歳過ぎになるともう一度、子供の頃を思い出し、育った場所に行ってみたくなるようなところがあるようです。

 私の生まれ育ったところは、本州最南端、潮の岬のすぐ隣の町です。古座川町といいます。5、6年も帰ってなかったでしょうか?電車で生まれ故郷の町が近づくにつれ、天気も良く、心もウキウキしてきて、隣の串本駅に降り立った瞬間に夏の日差しが懐かしく、潮の香りが胸に沁み、う〜んこれこれ!!と心が躍るのが実感されました。何なのでしょうね?この感覚?
 レンタカーを借りて、その日の内に、もう人手に渡ってしまった、実家?を訪ね、外から自分の部屋を想像し、あそこの部屋のあの窓からよくこの川を眺めていたなあ、などと思い出していました。目の前にはその川があります。満潮の為に豊満に水をたたえた川がそこにありました。川のさざなみが今でもとても好きで、心落ち着くのはこの川をずっと見て育ってきたからです。今も、川の側に住み、川面をボーと見ていたいと思うのはそのためでしょう。
 それから、車を走らせて、古座川の上流に向い、鮎が川で泳いでいるのを見てきました。僕が小学生の頃、今は残念ながら老人性痴呆症になってしまった父に連れられて、鮎の友釣りをしたものです。その頃、同じように橋の上に車を止め、川の流れの状況、水量を判断し、釣果を予想したものでした。その懐かしい場所に行って、同じように車を停めて鮎が泳いでいるのを見ることができたこともこの上なく嬉しいことです。川の水の美しさも昔のままです。裸足になって、実際に川に入ってみて石をめくってみると川えび(手長えび)がほんの浅いところにいて、全く小さい頃と同じで、思わずえびの手掴みに熱中してしまいました。もちろんつかまりませんでしたが…。約30年経ったにもかかわらず、全く小さい頃のままの古座川をみて、とても嬉しく、安心して、ホッとした次第です。

 翌日は、天然のうなぎ丼を食べました。天然のうなぎは、一般的に食べられているうなぎより身が締まって、歯ごたえがあります。行ったお店も30年前のままでした。もちろんうなぎ丼が最高に美味しかったことは言うまでもありません。
 生まれてから18年間、自然がいっぱいのところで育ち、鮎釣り、えびかき、サザエ、あわび取り、うなぎ取り、カブトムシ取り、などなど色々な遊びをしてきました。楽しい思い出です。楽しい思い出と同時に、そんな環境で育つことが出来たのをとても嬉しく思います。そしてそれが僕の自慢でもあります。

 育った環境は、人の性格に大きな影響を与えます。僕が陽気で楽天的なのも古座川の環境が大いに関係しているものと思われます。
その環境が、ほとんどと言っていいほど変わらず、30年経った今でもそこにあることに感謝して帰路につきました。
 ふるさとは、遠きにありて想うものでは無くて、現在の自分自身の再発見、再自覚のために育ったところにもう一度行ってみることはすごく良いことだと実感しました。何かに向って「ありがとう」と言いたいところです。(2001.8.22)
医者の良心

 患者様の取り違い、注射を間違えたなど医療ミス、医療事故のニュースが多く、同じ医療に携わるものとして心痛むことが多い昨今です。私達も日々診療していて、医療ミスがおきないように十分気をつけていますが、実は、気をつけるのではなく、ミスを起こさないようなダブルチェックではなくトリプルチェックシステムを具体的に構築することが大切であると考えています。人間はミスをするものであるという前提に立って、ミスを起こさないためにはどうしたら良いかを具体的に対処することこそ大切なのであると思っています。
 その根幹をなすのは、やはり、患者様の幸せと健康を願う心であり、医師だけではなく医療に従事するものが必ず持つべき心であると思っています。
 僕は最近、日々の診療していて、これからの医療は、患者様の幸せ、健康を願う心に、さらにプラス"患者様の満足"を追求する心が、もっともっと必要になって来るのではないかと思っています。患者様の"幸せ"、"健康"そして"満足"を追求する医療サービスが将来の医療の形になってくると考えています。日々実践することは難しいことではありますが、肝に命じて、着実に仕事をしていこうと思っています。

 僕は金沢大学整形外科同門会の一員でもあるのですが、今年の同門会誌に、医師の心得として大切な言葉が載っておりましたので紹介したいと思います。

 あなたが沢山の医学的知識を持っているからといって人生や人間について豊富な知識があることを意味するものではない。患者様や他の人から学びなさい
 診察時に前に座っている患者様が肉親だったらどうするか考えよ。
 親切にすることが最大の医療の補助になる。
 あなたが医師として仕事が出来るのは、多くの縁の下の力持ちがいるからだ。
 使う薬は出来るだけ少数に絞ること。


さらに、自分でも考えて実践しようとしている言葉もあります。

 患者様を診させて頂いているのだ。触らせて頂いているのだ。診てやっているなどという大柄な態度はもっての外である。
いつも御陰様の気持ちを忘れない。
患者様に威張ってはいけない。威張るなら医者同士の競争において威張りなさい。

(2001.6.11)
食の楽しみ

 生きるために食べることは別として、食べることの楽しみは、よく考えると二つあるような気がしています。

* 一つは、食べたいものを食べたい時に食べられるという楽しみ
 今日は、カレーライスを食べたい。昼は、天ぷらがいいな〜〜!今夜はカツ丼がうまいだろうな〜〜!などと考えながら食べたいものを食べるという楽しみです。
この場合、本当は、自分はカツ丼を食べたいと思っているのに、お鮨を食べなければならない状況になったときに、ちょっと悲惨です。いつもは美味しいと思って食べるお鮨もこの時ばかりは、美味しさが半減してしまうのです。
逆に考えれば、食べたいものを食べたい時に食べられる(お茶漬けしかり)楽しみがとっても大切な喜びであると思っています。

* 二つめは、どんな料理を食べさせて頂けるかなという楽しみ
 割烹料理のおまかせは、別の意味で楽しみがあります。割烹料理屋さんに行く時、今日はどんな美味しい料理を頂けるのかという期待に胸膨らませて暖簾をくぐる事になります。今は春だからきっと鯛がうまいはずだなあ〜〜などと考え、夏は、鱧、鮎をどういうふうに料理していただけるかなあ〜〜。夏の暑さを忘れさせてくれるような涼しさを感じさせてくれるかなあ〜〜。秋、冬にはうんぬん、〜〜〜。などと考え、期待する楽しみです。季節の料理を引きたてる器を見たり、持ったりする楽しみもあります。料理人のおもてなしの気持ちが伝わってくる料理を頂けるとき本当に嬉しく、楽しいものです。

 それと、もうひとつ、これら食の楽しみに欠かせないものがあります。楽しむためにはもう少し食べたいな〜〜というところで止めることではないでしょうか?それが楽しみを長引かせるコツのような気がしています。(2001,5,16)

 先日、私の親戚の叔父様が無くなりました。80歳でした。具合が悪くなったときから、どうしても入院は頑なに拒んでおりました。息子さんが亡くなられる3時間ほど前にも、救急車で病院に運ぼうとも考え、本人に言ったのですが、頑として受け付けずお亡くなりになったという事です。 大げさな言い方かもしれませんが、叔父様は、自分の意思で死を選択したとも言えるのではないかと考えています。もちろん、入院し、治療をしたなら、もう少し長く生きることができたかもしれませんが、本人の意思において自分の死を選んだということにおいては、誠に本人にとって満足のいく死に方であったような気がしてなりません。息子さんと電話でお話しをしたところ、やはり、そのまま、その意思を尊重できて良かったとおっしゃいました。
 死に臨む時には色々な場合があり、一概に一般論のようなものは入る余地も無いような気がしてなりません。ただ、一つ言えることは、自己の死に望む本人が一番満足出来るような死に方を選んで欲しいもので、医学も医療もその手助けをするに過ぎないものであると思っています。これを尊厳死というのでしょう。いかに死ぬべきかは、とりもなおさず、いかに生きるべきかと同じことであると思っています。さて、僕はどのような死に方をするものやら?(2001、3,30)
大人ということ

 大人の属性:経験と知識と判断力と調和の感覚、それに責任感それらが大人の属性である。そして、この属性は生涯みがかれねばならない。
 司馬遼太郎氏の言葉です。
 この言葉をみた時に、なんと的確で、過不足なく、見事に言い当てていると思い感激しました。経験、知識を蓄えるのはもちろん、さらにその上での判断力、そしてやはり人間である以上周りとの調和の感覚を大切にし、自分のすべての行為において自分で責任を取ることが出来る。それを大人と定義して、それを生涯みがきつづけなければならない。この生涯磨きつづけなくてはいけないと言う所に、大人として生きるということはなんと重く、辛く、悲しいまでに大変なことであるのだろうと思ってしまいました。
 しかし、完璧な人間などいないように、なかなかそうなれるものでもないのでしょうが、大人の属性という意味を司馬遼太郎氏に教えてもらったことは、僕の血となり肉となって生きる指針のひとつとなりました。(2001、3,30)
匂い

 昨日、一緒に飲んでいる友達が言いました。おまえは、僕と同じ匂いを持っている。
 ふ〜ん、確かに初めて出会った時から、何だか波長が合うというか、相性が良いというか、本当に何だか良く分からないのだけれど、感覚として一致するものが、そういえばあったような気がします。嗅覚?、感覚?、第六感?その人の雰囲気?、生きているうちに染み着いたもの?、物事の考え方?生き方?仕事の仕方?うーんそんなものであるような無いような?沢山の人と会って様々な出会いをしています。
 自分でも良く分からないのですが、でも気がついたらその友達といっしょにお酒を飲み、一緒に遊んでいる。不思議なものですね。自分自信も楽なのかもしれません。でも、いい表現ですね。"匂い"です。あ、ちなみに僕達はホモ達ではありません。匂いは、男女も関係の無いもののようです。
(2001.3.30)
娑婆はそんなにうまくいかない。うまくいったら感謝することです。
うまくいく世界を浄土というんです。

 僕の知り合いのお坊さんが教えてくれた言葉です。世の中自分の思った通りになかなかいかない。一生懸命やってもうまくいかないことが沢山あります。その時は考え、うまくいった時には、自分の努力以外のもの(他力、運など)が作用していることも多く、自分の力で成し遂げたなどと思わないほうが良いでしょう。うまく行った時は、人に、物に、運に感謝することが大切なのです。すべてうまくゆく世界は浄土です。
蓮如さんの考えでもあるのです。
 これを、今の時代に当てはめて考えてみると、何不自由なく育ってきた若者にとってこの言葉の真意がわかるかどうか、はなはだ疑問です。世の中、結構自分の思い通りになって生きてきたような人に、人に、物に、運に感謝しなさいと言っても言葉が上滑りするような気がしてなりません。うまく行かせようという努力は最低限必要なことです。目的の為に努力をするのは当たり前のことです。努力をして報われないことが沢山あることも事実です。報われた時に、有頂天にならずに人に感謝し、報われなかった時に、そんなもんだとむやみに落ち込んで自暴自棄にならないようあきらめる。
 そんな風に考えることで心が楽になる。それで良いのではないかと考えています。
何度も繰り返して言いますが、努力を努力とも思わない努力が成功の根底を支えていることは確かなのです。
それも欲や

  これもまた、もう一人のお坊さんに言われた言葉です。夜な夜な二人でお酒を飲みながら、僕自身の仕事のことやこれから色々とやりたいことなどを話している時に出た言葉です。もとより、医者の仕事は患者様の健康と幸せを願ってするものなのですが、それを目標に色々考え行動することもこれは僕自身の"欲"であると言われたのです。
 その時、今でも覚えていますが、肩の力がスーと抜けていく感じでした。世のため人のためと思い、肩肘張って威勢良く頑張っていることもすべて欲であり、そのことを認識するように諭されたわけです。それからは少し、自分も楽になったような気がしました。ありがたい言葉です。つくづく人間は欲望の塊であると実感します。
 ちなみに、欲を超えるものを"願"というようです。"願"を持ちましょう。
必要かどうか?

 あるものごとを始めようとするとき、それが社会にとって持続的に必要かどうかを根本的に考えることが大事です。社会にとって、人にとって必要であり、それが人を幸せにするものかどうかを真剣に考えた上で行動に移すことが大切であると考えます。
 白洲正子さんが言っています。知識を詰め込むことは何の為にするのか?それは知恵を発する手段である。そしてその知恵は何の為に使われるべきなのか。知恵は、必ず人の幸せを目的として機能すべきであると。今まで教育は、お受験などに代表されるように知識を詰め込むだけに重点が置かれた"積めこみ教育"であったように思います。積めこみ教育が知恵を生み出すものなら良いのだけれど、単なる知識だけで終わってしまえば知識が一人歩きし悪害をも生みかねません。知識ばかりをひけらかして自分で考えることが出来ない人間が多くなるのです。知識は知恵をつける目的の手段であることを忘れている方が多いのではないでしょうか?そしてその知恵は、恒久的な人の幸せを目的に威力を発揮するものであるべきでしょう。その知恵の根本の発想を人の幸せにとって必要なものであるか(必要性)を考えて、知恵を絞るということが大切なのです。つまり、その必要性とは、必ず、長い将来においても人を幸せにさせるかどうかという意味において必要かどうかと考えて物事を始めるべきであると思っています。

 さて、人の幸せとは何か?個人個人様々でしょうが、少なくとも人類の進歩、社会の発展というものでもないような気がしています。こんなことも出来る、あんなことも出来る。出来るからすれば良いというものでもないのです。便利だからこれを作ろうとか、面白いからやってみようと言う発想ではなく、根本的なところで、もう一度必要性という観点から物事を見つめなおす時代が来ていると痛感しています。これからIT革命の時代になっていくでしょうけれど、それが非常に長い目で見て、本当に人の幸せになるのかどうかをいつも考えてなされるべきだと思っています。

 池波正太郎さんは、人の幸せなんていうものは、10日に一度、好物の鮨を食べること、そんな程度のものであると言っています。相田みつをさんは、あってもなくてもどちらでも良いようなものはいらないんです。ともいいます。こんなことも出来るあんなことも出来る社会にどんどんなろうとしています。その中で、私達は、それが私達の生活に本当に必要なものであるかを考えて、しっかりと取捨選択をとしていくべきであり、逆に21世紀は厳しい自己判断が問われる難しい時代に入って来ていると思います。
欲に救われる

 それにしても、人間は欲の塊であるから、その欲を捨てることは確実に無理だろうと思っています。僕は、皆様に助けられながら、人生の半分ほど生きてきて四十過ぎとなりました。その過程において今まで欲の全く無い人に会った事がありません。だから、これから全く無欲の人に会う可能性は、太平洋で米粒を探すようなものであろうと思っています。
で、考えました。
 欲は物欲、色欲、名誉欲、金欲、などとどちらかといえば、悪い方の意味で使われる。
しかし、良い方の欲もあるのではないでしょうか?欲があるから前に進むことができると思っています。欲があるから、やる気も出てくると思っています。

 加藤唐九朗さんが言っています。
「人間は欲望を捨てることが出来ないから、欲望を満足させる以外に無い。芸術は相手関係無しに、自己の欲望を空回りさせて、そこに満足を見出す。宗教によって救うことの出来ない欲望を芸術が救ってくれる。」
 この芸術という言葉を、自分の仕事と言う言葉に置き換えた場合、凡人の僕でもちょっとやる気が出てくるから不思議です。つまり、そう考えれば、僕なんかも仕事をすることによって欲望を満たしているのです。
 自分の仕事を一生懸命することでその欲が満たされていると思えば、仕事が辛くとも、色々人間関係でトラブルがあろうとも、仕事をすることによって自分自身が救われている。健康で働けるという事だけで感謝の気持ちを持つことが大切なような気がしてきます。人は生かされているという感覚に似たものではないでしょうか。


曲がりくねって一本道

 物事、そんなにきちきち割り切れるものではないと思っています。ほどほどの感覚が好きです。もちろん始めからほどほどを目指しているともっと下のレベルにしか到達しませんから、ある程度、魂(こん)を詰めてすることも大事なのでしょう。第一義を目指したからこそ第2義に落ち着くというものです。

 ゴルフもシングルを目指すこともしないし、スキーも適度に滑れて怪我をしないようにしています。でも、ある時期(2〜5年ほど)よく頑張ってしていました。自分の仕事を犠牲にしてまではしませんが、ある時期は、しっかりうまくなろうと思って集中していました。そうすると少しだけそのものが分かりかけてくるのです。見えてくるとまでは言いませんが、分かりかけてくるのです。そうするとどうしようか考えます。どう楽しもうかと考えます。それなりに自分なりのスタイルが出来あがってくるとでも申し上げましょうか…。趣味というレベルではそんなもので良いと考えている凡人の僕です。
 ただ、自分の仕事は趣味ではありませんから、そうは行きません。究極を目指して魂を詰めます。
 なんていうと、とても窮屈になりますから、本音を言うと、仕事が好きなので自然とそうなってしまうといった方が正しいかも知れません。一生懸命になるのは良いのですが、余裕が無くなると窮屈になり、良い仕事はできないと思っています。僕は、自分の仕事が大好きですから、気がついたら一生懸命になってしまっているのです。これは、好きだからしょうがないことのような気がしています。

 皆さんは、どんなもんでしょうか? 
自分の仕事を語る場合、ついつい一生懸命になってしゃべってしまうことは当たり前ですが、それとは違った、趣味といわれる部分で色々な事が出来、語ることが出来る人間がとっても好きです。そんな人は、お酒を一緒に飲んでいてとっても楽しい。そんな人ほど自分の仕事では、素晴らしい職人的なプロがする仕事をしているのだと思っています。余裕がある人ほど良い仕事をするのではないでしょうか。

 人や物事の本質を見ようとする自己判断無しに、情報、評判に影響されて決めつけて判断する人間が僕は最も嫌いです。自分の仕事の自慢話を延々する人も嫌いです。威張る人も大嫌いです。自分は有名人のだれだれと友達だと自慢する人なんかは、最低だと思っています。でも、それは嫌いなだけであって、その人を批判したり、批評したりもしたくも無いのです。人の本音、本質は、結局、他人には全く分からないという考えが僕の根本にあります。分からないという事が分かっているから特に何も言わないことにしています。ただ、いっしょに美味しい食事をし、お酒を飲む時間を共有しようと思わないだけです。
 といいながら僕も時々、ついつい威張ってしまうときもあるだろうと思っているので、そうならないように心がけているのですが、まだまだ未熟なので、時に自慢話をして後で落ち込むことも多々あります。後悔あとを立たず(後悔ばっかり)と言ったところでしょか。
いつも、こんな風に落ち込んだり、ちょっと誉められれば有頂天になってしまう人間僕がここにいます。でも、それも曲がりくねっても一本道なのでしょう。こんな風にしか生きてゆけないのです。初めから100%の人間なんていないと開き直っています。100%の完璧なんて人間が生まれて死ぬことくらいだと思っています。